鉄腸野郎と昔の未公開映画を観てみよう!

鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!の別館。ここでは普通の映画史からは遠く隔たった、オルタナティブな"私"の映画史を綴ることを目的としています。主に旧作を紹介。

Jairo Ferreira&"O vampiro da cinemateca"/シネマテークの吸血鬼現る

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"O vampiro da cinemateca" / "シネマテークの吸血鬼" (監督:Jairo Ferreira, ブラジル, 1977)

ブラジルにはシネマ・マージナルという潮流がかつて存在した。この国においてはシネマ・ノーヴォが有名だが、主流映画に反抗する潮流に更に反抗する存在がこの団体だった。例えば"O bandido da luz vermelha"のRogerio Sganzerla ホジェリオ・スガンゼルラや"Aopção ou As Rosas da Estrada"のOzualdo Candeias オズアルド・カンデイアスその中でも理念の実践として有名な作品が"O vampiro da cinemateca"である。

今作はジョナス・メカスなどが製作したエッセイ映画の系譜に連なる映画と言えるだろう。監督はフィクションやドキュメンタリー、日記的な朗読やラジオ音声、音楽や映画の抜粋を支離滅裂なまでの過激さで連ねながら、今作を紡いでいく。

まず際立つのが舞台となるサンパウロの街の存在感である。闇の中で光り輝く月、車のフロントガラスから見えてくる白い点のような街灯、そして「タクシードライバー」のNYを思わす(実際、劇中には映像の抜粋が出てくる)街の風景。そこには猥雑な活力と濁った極彩色が漲っている。スーパー8の粗さはそこに更なる力を与えているのだ。

そして映画の抜粋の数々も映画の核になっている。監督は映写室に籠もって煙草を吸いながら、数々の映画を観ている。例えば「市民ケーン」や「怪人ドクター・ファイブス」「さすらいの二人」などだ。それらがスーパー8で盗撮されて、乱暴な形で提示される。そこで監督は言うのだ。"俺は映画を吸い尽くす。血を新しくするために"

Jairo Ferreira監督は映画作家であると同時に、批評家でもあった人物である。いくつもの著作を執筆すると同時に、シネマ・ノーヴォの重要人物パウロ・ローシャの作品などを堂々と批判してきた。そうした反感によってシネマ・マージナルは形を得ていく訳である。そしてその理論的な実践が今作なのだ。凄まじいまでに支離滅裂で、実験映画の素養がなければ意味不明なだけかもしれないが、ブラジルの片隅で驚くほど先鋭な前衛映画が作られていたことは知っていて損は無いだろう。

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Gábor Pál&"Angi Vera"/ハンガリー、共産主義と愛

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"Angi Vera" / "アンギ・ヴェラ" (監督:Gábor Pál, ハンガリー, 1979)

18歳の看護師ヴェラは病院の劣悪な環境に心を痛めていた。それを共産党の上層部に訴えた所、党の教義に反するということで看護師を辞めさせられ、田舎町に位置する学校に送られる。ここでヴェラは共産党の教えを叩きこまれるのだったが……

序盤において印象的なのは、ヴェラと他に集められた女性たちとの交流である。ある者は教義に従い、ある者は自由に振る舞いながら、密な関係を築き上げている。時には柔らかに融和することがあれば、時には激しく衝突することもある。共産党の名の元に、女性たちは奇妙な離合集散を繰り返す。

今作は1979年製作なのだが、この頃は共産党の検閲が緩かったのか、教義への批判的な視線が随所に見られる。最初は反体制的だったヴェラがだんだんと共産党に感化されていく様は不気味な感触を宿している。さらに女性の裸が何度も出てきて、そこからも割にこの時代のハンガリーは開放的な時代だったのではないかと推察される。

そんな中、ヴェラは自身らの授業を受け持つ教師に恋をする。その一方でともに勉強をする妻子持ちの男は彼女に片思いをしている。中盤からはこの古典的なメロドラマ的展開が牽引力となる。暖色を基調とした格調高い映像は、その愛の彷徨いを静かに彩っていく。

ここにおける緊張感は最後の場面で最高潮を迎える。学校の公聴会共産党の上層部がやってくるのだが、その会の間、3者の視線が静かに、だが力強く交錯していく。そして彼女は立ち上がり、今後の人生を決める言葉を紡ぎだす。そこに共産主義の時代を生きることの大いなる苦悩が立ち現われるのである。この時代それ自体が共産主義だったのに、そういう映画が作れることは割と驚きである、"昔の"という枕詞がつけば認められたんだろうか。

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Alexis Damianos&"... Mehri to ploio"/ギリシャ、3つの愛の風景

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"... Μέχρι το πλοίο" / "船が出港するまで" (監督:Alexis Damianos, ギリシャ, 1966)

青年アントネは自身の故郷を捨てて、オーストラリアに移住するため、ギリシャを旅している。その費用を貯めるために、友人の鍛冶屋に立ち寄り、そこでしばらく働くことになる。最初は旧交を温めるのだが、友人の恋人が現れたことで事態は一変する。

まず繰り広げられるのは恋の三角関係である。交わされる言葉は少ないながらも、アントネは確かに女性に惹かれていく。そして徐々に彼女も惹かれていくのだが、それとともに愛の緊張感は増幅していくことになる。そして宏大に広がる深く森ですらその愛を抱え込めなくなった時、事態は破局を迎える。

そしてアントネは再び旅へと出るのだが、茫漠たる荒野で出会ったのはナノタという女性である。彼女は気の狂った妖精さながら、荒野を駆け抜け続けるのだが、アントネはその姿に惹かれるとともに、予測不可能性に翻弄されることとなる。

この奇妙な愛の舞踏はすこぶるシュールな様相を呈する、どこまでも続く無限の広野、ナノタの名前を絶叫し続ける羊飼いたち、騒音を挙げながらナノタを追うバイク。そこでナノタは天衣無縫な愛を振りまきながら、舞踏を続ける。荒野は舞台だ。ナノタは発狂した踊り手だ。そこには超現実的な魅力が宿る。

そんな旅路の果てにアントネは港町に辿り着く。そこである夫婦のもとに居候をすることになるのだが、その夫婦の関係性は冷え切っていた。妻は寂しさを顔に張り付けながら、無関心でありながら抑圧的な夫に文句を言い続け、時には暴力を受ける。そんな状況に耐え兼ねたアントネは彼女とオーストラリアへ行くことを決意する。

という訳で今作は全く異なる作風を持つ3幕もので形成されている。1幕は愛の三角関係、2幕は愛の超現実的舞踏、3幕は愛の不毛な不条理劇といった形だ。個人的に好きなのは3幕だ。妻の視点でこの絶望的な夫婦生活が描かれる様は、家庭という牢獄を描いたシャンタル・アケルマン作品のような趣がある。カメラワークと閉所恐怖症的な舞台設定も他とは異様で一線を画している。前2幕がギリシャの自然を背景としていたから、ほぼその要素が取り払われミニマルさを突き詰めた3幕は一層奇異に映る。

監督は今作を以て、ギリシャにおける60年代という時代を忌憚なく描き出している。そこで愛は一体どのような変容を研げていっているのか。それが余すことなく浮き彫りにされているのだ。

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Agim Sopi&"Njeriu prej dheu"/コソボ、受難と尊厳

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"Njeriu prej dheu" / "土より生まれし男" (監督:Agim Sopi, コソボ, 1984)

今作の主人公はソコルという老人だ。彼はコソボの田舎町で農民として暮らしていたが、貧困は深まるばかりだ。それ故に息子の家族とともに、トルコへと出稼ぎに赴くのだが、その生活すら安定したものではなく、ソコルは追い詰められていく。

そんな中で最愛の妻が亡くなってしまい、彼女を埋葬しようとするのだが、貧困の生でそれすらままならない。この事実とともに自身の死期を悟ったソコルは、せめて自分の骨を故郷の大地に埋めることを願い、家族を置いてコソボへと帰還することになる。

今作において監督は格調高い映像で以て1人の老人の苦悩を描き出していく。孫はソコルにこう尋ねる。"私たちはどこから来たの? 私たちの故郷はどこ?" ソコルは言葉を濁しながら、遠い目をすることしかできない。娘はトルコ人と行きずりの関係を持つのを続け、家庭は荒れ果てる。その光景を監督は静かに見据えるのだ。そこからは苦しみと怒りが滲み渡る。

そしてソコルは故郷へと戻るのだが、そこすらも荒涼たる有様を呈していた。石造りの家の群れは朽ち、打ち捨てられている。妹と再会を果たしながらも、彼女は幼い息子を失ったのをきっかけに発狂、赤子の泣声の幻聴に惑わされるようになっていた。ソコルが持っていた土地も複雑な権利問題によって、持ち主が判別できなくっている。そしてソコルの苦悩は更に深まっていく。

後半になるにつれ、映画の視点はソコルから様々な人々に移り変わることによって、今作は個人の映画からコソボ人それ自体についての映画へ変わっていく。コソボの歴史は複雑だ。ユーゴ時代、コソボアルバニア人はチトー政権に弾圧を受けながら細々と暮らしていた。その抑圧と貧困に耐え兼ねた人々は他国へ移住を果たしながら、その生活も平和なものではない。コソボに生まれることそれ自体が受難のようなものだ。しかし監督はソコルたちの姿を通じて、コソボ人の尊厳をも描き出している。彼らの大地に根づく強さを確かに描いているのだ。

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Román Chalbaud&"La oveja negra"/ベネズエラ、熱狂と狂騒のメロドラマ

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"La oveja negra" / "黒い羊" (監督:Román Chalbaud, ベネズエラ, 1987)

舞台はベネズエラの首都カルカス、この年に位置する古い映画館である。もう既に作品など上映されなくなった廃墟を、しかし根城とする人々がいる。彼らは犯罪者やホームレスなど寄る辺を持たない者たちであり、リーダーである中年女性ラ・ニグアを中心に疑似家族を形成していた。

今作で描かれるのはそんなユートピア的な世界における楽しい乱痴気騒ぎである。中年男性たちは酒を飲みながらお喋りを交わし、若者たちはバイクを乗り交わす。そして他愛ない毎日が、ある種の激しいエネルギーと共に紡がれていくのである。

際立つのは美術の豊かさだ。喧騒と狂騒を詰め込んだ小宇宙は埃臭くも力強い極彩色の装飾で彩られている。登場人物たちのエネルギーも相まって、その光景は例えばフェリーニやエミール・クストリツァの作品を彷彿とさせる。まさかそんな大作家と同種の才能を持つ映画監督がベネズエラにいたなんてと驚かされた。

そんな中、ラ・ニグアの息子であるエベリオが娼婦であるサグラリオと出会う。彼らはすぐさま恋に落ち、映画館で一緒に住むことになる。だが彼女の元夫であるハイロは警官であり、しかも元妻に未練タラタラだった。ストーカーのようにエベリオたちにまとわりつくハイロだったが、彼の執念は段々と手が付けられなくなっていく。

今作は映画でしか描けないような快楽が存分に詰まっている。先述した登場人物たちの狂騒ぶりもそうであるが、彼らが繰り広げる時に滑稽で時に感動的なメロドラマ、そして共同体が悲哀を持ちながらも豪快に崩壊していく風景、刺激的な銃撃戦まで交えた大胆なラスト。そういった様は勇大でありながらも、切ない。思わず落涙を禁じ得ないような力がそこにはある。

Román Chalbaud ロマン・シャルボーはベネズエラを代表する映画作家である。1977年製作の"El pez que fuma"はある娼館で繰り広げられるメロドラマを通じて、当時のベネズエラを活写した作品で、ベネズエラ映画史上の傑作と謳われている。40年にも渡って映画製作を続けており、1989年製作の"Cuchillos de fuego"は母を殺害した男を追い求める復讐者の物語、2017年製作の"La planta insolente"は1899年にベネズエラの国権を奪取したシプリアーノ・カストロについての伝記映画だ。現在も存命で、劇作家としても活躍している。

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Assi Dayan&"Ha-Chayim Al-Pi Agfa"/イスラエル、淀みゆくこの国

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"החיים על פי אגפא" / "アグファでの人生" (監督:Assi Dayan, イスラエル,  1992)

舞台はテルアビブに位置する"バービー"という名のバーだ。ここには心や体に傷を持つ者たちがいつでも流れ着いてくる。今作はこのバーで繰り広げられる運命的な1夜を描き出した群像劇である。

例えば店主であるダリア、彼女はその辣腕でバーを切り盛りする傍ら、自身の恋人がずっと自分を愛してくれているか心配で堪らずにいる。店員のダニエラはアメリカへのビザが欲しいと一生懸命に働き続けている。リッキーはキブツからやってきた女性だが、都市の喧騒に深い息苦しさを感じている。そこに刑事や傷痍軍人、ピアニストらが関わり、事態は複雑になっていく。

監督は鋭利なモノクローム映像によって、テルアビブの夜を切り取っていく。その光景は瀟洒というよりも、生々しく淀んだ空気感を湛えている。それはおそらく登場人物たちの心象風景を反映してもいるのだろう。この重々しい黒が観客の心に伸し掛かってくる。

そして黒の色彩は登場人物たちを絶望へと引き込んでいく。リッキーは行きずりの男と一夜を共にした後、言葉にはし難い不安と絶望感に苛まれ、自殺を図ることになる。そしてその男が再び夜の街へと繰り出す時、その横には彼女の哀れな死骸が転がっている。だが緑に包まれたそれに気づかないまま、彼は行ってしまう……

今作の胸を締めつけられるような重苦しさは当時のイスラエル社会の反映なのかもしれない。事実、今作製作の3年後である1995年にはイツハク・ラビン首相が暗殺され、国は右傾化の道を歩むことになる。今作のラストは正にその黙示録を体現したものだ。それは余りに強烈で、私も思わず唖然としてしまった。だが当時のイスラエルにおいて、ここに現れる大いなる力は現実味を以て受け入れられたのだろう。

Assi Dayanは1945年生まれ、主に俳優として活躍しながら監督としても活躍する。1975年にはイスラエルの予備兵を主人公としたコメディ"Giv'at halfon eina ona"を手掛け、1994年には今回紹介した作品の続編"Smicha Hashmalit Ushma Moshe"を監督した。遺作は2011年の"Dr. Pomerantz"、困窮に陥った無職の心理学者を描いた作品である。2014年に惜しまれつつこの世を去った。

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Lana Gogoberidze&"Me vkhedav mzes"/ジョージア、私には太陽が見える

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"მე ვხედავ მზეს" / "私には太陽が見える" (監督:Lana Gogoberidze, ジョージア, 1965)

カティアはジョージアの田舎町に生きる盲目の少女だ。唯一彼女が見ることのできるものは太陽の光だけだった。そんな彼女が生活するのを助ける存在がソソイアだった。彼はカティアを慕い、いつも傍らにいる。2人は切り離せない存在だった。

まず印象的なのは音である。OPクレジットが流れる際、カメラが電車の最後尾からトンネルを行く姿を映し出す時、そこでは禍々しい音楽が流れる。そしてそこに重なるのは断末魔のような金属音だ。その不穏さは一種異様なもので、この先に来たる脅威を予告するようだ。

そうして脅威が迫りくるなかで2人は逞しく生きようとする。だが脅威は明確な形で彼らに降りかかる。軍人たちの登場、恩人である男の死。そういった現実はカティアたちの心を少しずつ疲弊させていくのである。

そんな逼迫した状況とは裏腹に、監督が紡ぎだす映像には鮮やかな瑞々しさが宿っている。例えば作業をする農夫たちの姿を横移動かつ長回しで捉えていく様にはそこに広がる日常の空気が美しく切り取られている。そして脅威から逃れようとする2人が、海辺を歩く場面がある。白と黒の濃淡が繊細に揺れる海と空の風景は息を呑むほど美しいものだ。

そして2人は決断を迫られる。この辛く苦しい世界で共に居続けるのか、それとも別れそれぞれの道を行くべきなのか。そんな人生のこれからを決めてしまうであろう選択に直面する彼らの姿を、監督は優しく見つめるのだ。

Lana Gogoberidze (ジョージア語表記:ლანა ღოღობერიძე)は1928年、トビリシに生まれた。トビリシ国立大学とモスクワ国立大学で映画製作を学び、50年代から映画監督としてデビューする。1984年製作の"Day is Longer than Night"はカンヌ国際映画祭にも選出されるなど話題になる。その後は政治家にも転身、2004年にはフランスのジョージア大使に任命されるなど幅広く活躍している。

Me vkhedav mzes (1965)