鉄腸野郎と昔の未公開映画を観てみよう!

鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!の別館。ここでは普通の映画史からは遠く隔たった、オルタナティブな"私"の映画史を綴ることを目的としています。主に旧作を紹介。

Jeles András&"Álombrigád"/混沌の上演、未だ始まらず

Részletek Gelencsér Jeles-könyvéből - Magazin - filmhu

"Álombrigád / 夢の旅団" (監督:Jeles András, ハンガリー, 1983)

今作のあらすじは一応こういうものだ。主人公がある労働組合とともにソ連の戯曲を舞台化しようと試みる、しかし製作は困難を極め、脇道に逸れ続け、いつまで経っても完成に至る気配すら見えない……が、この作品はこの単純なあらすじに収まるほど従順な映画ではないことは冒頭から分かる。

序盤から語り手は語り手という概念が矮小に思えるほどに膨大なる言葉を紡ぎつづけ、その背景では舞台製作の状況、他の映画のフッテージ、そして正体すら判然としない奇妙な映像が混ざりあい、事態は壮絶なまでに支離滅裂だ。だがこの膨大な語りと滅裂な編集の中で、映画は早くも風変わりな映像詩に昇華される。

語りは俳優/労働者たちも交えてポリフォニックなものへと移行するのだが、十数人の声が交錯する時に鮮烈に感じられるのがハンガリー語の魔術的な響きだ。東欧において全く孤高の言語であるハンガリー語は何物にも似ていない、曲がりくねった響きを持ち、観客を幻惑へと誘う。そしてそこに加わるのは暴力的に挿入される日常音の数々だ。そしてさらに今作は映像詩から五感をフル活用して味わうべき音楽へと姿を変えるのだ。

奇妙に印象的なのは俳優として参加する労働者男性たちの結びつきだ。それは序盤に頻出するシャワー室で露になる一糸まとわぬ裸体のように赤裸々で、廃墟の窓枠を越えて頬を擦りあう2人の男のように親密なものだ。そこに発声と挙手挙動の舞台的な誇張が仲間入りすることで、無二の官能的関係性が紡がれていくのである。

今作に現れる様々な要素を羅列していったが、これら全てが強烈な個性として独立しながらある種の独善性を以て展開していく。だが監督のJeles András イェレシュ・アンドラーシュはこの強烈な個性の数々を自由に躍動させながら、同時に破綻スレスレで統率を取っている。このギリギリの状況の中でこそ、その個性の群れは有機的に響きあうことともなる。

語り手や俳優たちは舞台を完成させようと奔走するのだが、その完成はどんどん程遠くなっていく。この出口の見えなさが極まっていくにつれ、映画の展開もどんどん脇道に逸れ、一体何が主眼だったのかすら判然としなくなる。だが一線を越えて逸脱こそが中心となる時、映画はまた別の何かへと変貌を遂げるのだ。監督は荒唐無稽と支離滅裂に満ちた混沌のなかにこそ、美を見出している。この美への圧倒的に過激なマニフェストがこの"Álombrigád"なのだ。

Jeles Andrásは1945年生まれのハンガリー人監督だ。デビュー長編は盗んだ金を使い街を彷徨い続ける青年の1日を描いた作品"A Kis Valentinó"(1979)、そして第2長編は俳優が全員子役でドギツい性描写もあるゆえ、ペドファイル国家日本で変に有名な「受胎告知」("Angyali üdvözlet")だ。この作品と同年に作られたのが今作"Álombrigád"だった。しかし反体制的との烙印を押されてしまい、1989年まで公開が許されなかったという逸話がある。最新作はドイツの画家ハンス・ホルバインの作品「大使たち」に着想を得た作品"A rossz árnyék"(2018)で、未だ現役バリバリで映画を作り続けている。

驚きなのはこのJeles Andrásの息子があの「サウルの息子」で2010年代を席巻したネメシュ・ラースローであることだ。ネメシュ作品におけるラディカルさの源が今作含めたJeles作品にあると考えると、何とも豊穣なハンガリー映画史を感じさせる訳である。

Álombrigád (1989) - IMDb