鉄腸野郎と昔の未公開映画を観てみよう!

鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!の別館。ここでは普通の映画史からは遠く隔たった、オルタナティブな"私"の映画史を綴ることを目的としています。主に旧作を紹介。

Leyla Assaf Tengroth&"Frihetsligan"/レバノン、少女たちの現実

Het Jeugdfilmfestival

"Frihetsligan" / "自由ギャング" (Leyla Assaf Tengroth, レバノン, 1994)

シェイハは貧困にあえぐ家庭に生まれ、ベイルートの片隅でスリなどの犯罪に手を染めながら何とか暮らしている状態だ。家に帰っても強権的な父親に虐待される時間が続き、心の休まる時間が存在しない。とうとうシェイハは弟のアフメドと一緒に、家出することを選ぶ。

今作は内戦終結後のレバノンベイルートを撮影場所としているが、時間軸も内戦終結直前からその後に置かれている。ゆえに当時の空気感が生々しく切り取られている。荒廃した街並みを子供たちが駆け抜ける様は自由ながら、行われるのは犯罪行為の数々であり、強かにならねば生きていけない壮絶さをまざまざと見せつけられる。例え遊園地で無邪気に遊べる時間があっても、その楽しみは爆撃と銃撃で切り裂かれる運命だ。

とうとう家出を果たしたシェイハは弟や友人たち、そして偶然出会ったラシドという中年男性とともに"自由ギャング"を結成し、自分たちだけで生きていくことを決意する。最初は裏の世界に繋がりのあるラシドの助けを借りて生存を繰り広げていたのだが、彼の真意が明らかになっていくうちシェイハはまたも窮地に追い込まれしまう。

今作のそこかしこに搾取/被搾取の存在がある。シェイハは父に搾取され、次はラシドに搾取され、更に次は……といった風に、子供という立場を利用され搾取の螺旋に巻き込まれる。この状況で彼女は犯罪行為を行い一般人から搾取を行わざるを得ない。しかし他者からの搾取では被搾取の立場から逃れられない。例え逃れたと思えても、また別の権力者に搾取される。

撮影はリアリズム主体であり、当時のベイルートにおいて今そこに流れていた空気感を生々しく捉えている。完全に荒廃した灰燼色の室内からは貧窮が齎す埃の噎せ返るような匂いが漂い、建物に穿たれた傷跡はそのままレバノンという国が負った傷跡として際立つ。だが時おり、カメラはそんな息苦しさから隔たった解放をも映す。喧騒から逃れるためシェイハたちが赴くのは美しい海だ。彼女たちは岩礁を軽快に行きながら、陽射しに煌めく海を眺め、心に溜まる疲弊の澱を癒していく。この海岸の風景には安らぎの詩情が満ち、観客にもまた束の間の休息が訪れる。

だがこの詩が一時的にシェイハの心を救ったとしても、非情な現実の下において彼女に居場所はない。ある時、数えきれないほどの逮捕の末、哀れに思った警察官の手配でシェイハは孤児院兼修道院へ入れられることになる。1人の修道女に心を開く一方で、同世代の子供たちからは無知を嘲笑われる。そして最後にはラシドによって強制的に修道院から連れ出され、再びベイルートの路上に戻る羽目になる。

レバノンの壮絶な現実は留まるところを知らない。再び犯罪に明け暮れるなか、シェイハはラシドが子供たちをレイプしており、弟であるアフメドもその毒牙にかかったことを知る。彼を助けるために囮となったシェイハはラシドをナイフで刺し、警察に捕えられることとなる。

裁判において裁判官はシェイハが置かれた状況を鑑み、情状酌量の余地がある証言を引き出そうとする。正当防衛だったのですよね、いえ私が刺し殺しました、彼はまだ生きています、私が刺し殺しました。この子供が持つにはあまりに重すぎる絶望の発露は、日本でも話題になったレバノン映画、ナディーヌ・ラバキ監督作「存在のない子供たち」を彷彿とさせるものだ。あの頃から状況は変わっていないようにも思え、胸を掻き毟られるような心地を観客は味わうかもしれない。

ラストもまた痛烈だ。裁判の後、シェイハとアフメドは憐れみからある富裕層の家族に引き取られる。だが路上生活でもはやタガの外れたシェイハたちの暴力的な自由さを持てあまし、結局路上に彼女たちを放棄してしまう。最後に映るのは物乞いになった2人の姿、港でお金をねだるシェイハを幼稚園児と教師の集団は無視し、船に乗ってどこかへ向かいながら快活に歌を響かせる……この残酷なまでの対比に、レバノンの人々が抱く絶望と虚無がまざまざと刻まれている。

今作の監督Leyla Assaf Tengroth レイラ・アッサフ・テングロットはスウェーデンを拠点としながら、外側からレバノンの現代史を眺め続けた人物だ。70年代からスウェーデンのTV局に勤め、世界を股にかけドキュメンタリーを製作する一方、今作のようなフィクション作品も寡作ながら手掛けている。今作もスウェーデン資本で作られているゆえに、映画に現れる原題もアラビア語でなくスウェーデン語の"Frihetsligan"である。他の作品にはギニア人女性の心の彷徨を描く"Amelia"、レバノンの強制結婚と名誉殺人を描いた"Not Like My Sister"などがある。

Frihetsligan (1994) - SFdb