鉄腸野郎と昔の未公開映画を観てみよう!

鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!の別館。ここでは普通の映画史からは遠く隔たった、オルタナティブな"私"の映画史を綴ることを目的としています。主に旧作を紹介。

Andreas Pantzis&“Slaughter of the Cock”/キプロス、その血塗られた業

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“Η σφαγή του κόκορα” / “鶏の屠殺” (Ανδρέας Πάντζης, 1996, キプロス)

友人関係にある男2人エヴァゴラスとオニシモスは、ナイトクラブ兼娼館を経営する日々を送っている。ある日彼らのもとに旧知のアメリカ人男性がやってくるのだが、彼は1本のセックス動画を手にしており、これをネタに男たちに脅迫を図ってくる。ここには男たちが隠したい忌まわしい過去が宿っていた。彼らは若い頃、ペルシャ湾へと赴き、ここで移民労働者として過ごしていた。そして3人はここで出会いを果たし、いつしか性的放埒へと身を委ねることとなる。

今作は執拗な長回し主体の映像によって呪いを背負う男たちの姿を見据えていく。過去をひた隠しにし、己の地位を固持するがため、主人公たちは苦肉の策として男性を射殺、映像を我が物とする。だがこの行動によって精神が危機的状況に追いやられていく最中、エヴァゴラスはある女性と出会う。聾者である彼女に徐々に惹かれはじめ、エヴァゴラスは人生を新しくやり直すことを決意する。それでも過去の罪が、彼の心を苛んでいく。

演出は凄まじく忙しないもので、熱気や湿気がレンズにこびりついているような噎せ返る感覚すらも観客は味わわされるだろう。長回しゆえの息が長い、ある種長すぎる途切れなき映像には、男らしさを誇示するかと思えば罪の隠蔽に勤しみ、クラブの女性たちを邪険に扱うかと思えば最愛の女性に熱情をぶつける、そんな男たちの壮大な独善性、そこから溢れだす濃密な生命力が焼きついているのだ。

これはポジティブな形で作用するものでは一切ない。自分以外の他者、特に弱者を踏みにじり、時には自分自身すらも派手に傷つける。この性は抑えられずに、迸るがままに行動する、行動せざるを得ない。この凄絶なまでに自暴自棄は、もはや自己破壊と見分けがつかない。こうしてエヴァゴラスたちの熱気は狂気へと変貌を遂げていくのである。ここにおいて監督はキプロスにおける男性性の業を抉りだそうとしているように思われるのだ。これが抑えの効かないまま暴走することによって、世界は破壊され、最後には己も崩壊を遂げる。

そういう批判的な視点がある一方で、問題のある描写も枚挙に暇がない。特に女性描写に関してはかなり思うところがある。今作に出てくる女性は過剰なまでに性的な役割を押し付けられている。エヴァゴラスたちがナイトクラブを経営している故に、特に冒頭にはそこで働く女性たちが出てくるが、誰も彼も主人公たちにコケにされ、苦渋を強いられている。彼女らがフィリピン移民ということも相まって、女性/移民という二重の意味でマイノリティである女性が性的な客体化を被っているのは見逃せない。そしてヴァレリア・ゴリーノ演じるエヴァゴラスの恋人も、性的幻想や理想を押しつけられたような純粋無垢な存在として描かれている。彼女の場合、上述の要素に耳が聞こえない障害者というものも加えられ、何重にも問題があるいうに思われる。

だが男性性の業を描きだす今作の激烈な筆致には、この瑕疵すらも、むしろキプロスという国家それ自体の救いがたき業として告発しているのか?と思いたくなる衝動にすら駆られる。それほど凄まじいものなのだ。ラストの展開もこの印象を鬼気迫るものにする。最後、良心の呵責に押し潰されたエヴァゴラスは発狂、罪を清算するがためか、両耳を拳銃でブチ抜き、恋人のように聴覚を失うことになる。これはおそらくギリシャ神話の1つである「オイディプス王」、そこで目を潰したオイディプスの変奏でもあるだろう。しかしここで自己憐愍や救世主願望に酔うかと思えば、彼の罪が白日に曝された後、群衆からリンチされることになる。エンドロールが流れるなか、スローモーションの映像のなかで、エヴァゴラスは無慈悲になぶられ、最後には息絶える。ぬるい憐愍や願望は完膚なきまでに破壊し尽くされる。この容赦なさにはさすがに言葉を失わざるを得なかった。これゆえ、今作が数ある瑕疵をも越えてキプロス映画史に名を残したと私には思えたんだった。

Andreas Pantzis アンドレアス・パンツィスはキプロス映画史に名を残す重要人物でありながら、この40年で今作を含めて4作のフィクションと3作のドキュメンタリーしか長編を残していないという寡作作家でもある。興味深いのはデビュー長編から最新作に至るまで全てがランタイム150分越えという壮大さで、かつ主人公の名前が全てエヴァゴラスということになっている(俳優はそれぞれ別)時代設定はどれも異なりながら、その長大さとエヴァゴラスという名のもとにキプロスの文化と現代史、そしてその精神を描きだそうという方法論は徹底している点に、映画作家としての自負を感じざるを得ない。

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