鉄腸野郎と昔の未公開映画を観てみよう!

鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!の別館。ここでは普通の映画史からは遠く隔たった、オルタナティブな"私"の映画史を綴ることを目的としています。主に旧作を紹介。

Ted Post&"Do Not Fold, Spindle or Mutilate"/テッド・ポストが見据える善悪の彼岸

Do Not Fold, Spindle, or Mutilate (1971) — The Movie Database (TMDb)

"Do Not Fold, Spindle or Mutilate" / "折り畳んだり、紡いだり、バラバラにしたりしないで"(Ted Post, アメリカ, 1971)

今作の主人公は4人の老婦人たちである。彼女たちは集まっては他愛ない世間話に花を咲かせていたのだが、この日は喫茶店で1人がある提案をする。最近人気のコンピューターを通じたデートサービス(だが舞台は2010年代ではない、1970年代である!)に登録しようというのだ。だが自分たちのプロフィールではなく、レベッカという"若い女性"を捏造し、それで男たちを騙してやろうというのだ。彼女たちは暇潰しとして早速このいたずらを始めるのだったが……

まず、この作品では老婦人たちの無邪気な生命力の輝きが眩しい。続々と集まってくる男たちからの手紙に目を通し、彼らの阿呆な直情ぶりや滑稽なまでの紳士的振舞いに目を細める。それが彼女たちの灰色の日常に彩りや潤いを与える。気心知れた友人たちとの悪ふざけを楽しく思うのは、何も中学生の男子だけではない。老若男女そうなのだ。

だがそのレベッカという虚構にマルという男が引っかかる。彼は女性との関係をうまく構築することができず、女性たちへの怒りはもはや逆恨みの域に達していた。そんなマルはレベッカに恋に落ち、何としてでも彼女に会おうと行動を始める。そんな深い固執は激化の一途を辿り、マルの行動はエスカレートしていく。

4人の老婦人は終りないお喋りで満たされている一方で、マルが登場する場面では彼が心のなかで呟く独り言が延々と垂れ流される。女性への執着や人生への怨嗟の数々は、何とも楽しげなお喋りと対比され、ひどく惨めで悲壮に響き渡る。いつしかそこには性差別的思想に支配された孤独な男への危うい共感すらも現れる。

だが老婦人たちはそんなマルの状況など知る訳もなく、マルに対しても嘲笑うような態度を崩さない。そしてこの意地の悪さがマルを限界にまで至らせた時、マルはレベッカと誤解した女性を殺害してしまう。ここに来て危機的状況に気づいた4人は事態の収拾を図ろうとするのだが……

本作の監督は何か喉奥に小骨が引っかかるような、妙な映画を作る異能の職人監督テッド・ポストだ。彼は元々テレビ畑の人間で、映画を製作し始めてからもテレビでの仕事を辞めることはなかったが、この映画は「続・猿の惑星」翌年に制作したテレビ映画の1本である。ここでの彼は真摯な職人としての能力を遺憾なく発揮しており、長回しを主体として舞台劇的な物語を描きだしながら、演者たちからも滋味深い演技や感情を引きだしている。

ここでポストが迎えたのは4人の大女優たちである。「ハリーの災難」にも出演するミルドレッド・ナトウィック、「マデロンの悲劇」でアカデミー主演女優賞獲得のヘレン・ヘイズ、フリッツ・ラングの寵愛を受けたシルヴィア・シドニー、「我等の生涯の最良の年」で日本でも人気のマーナ・ロイなどなど錚々たるメンバーである。彼女たちが伸びやかに言葉を紡ぎ、紅茶を楽しむ姿には花咲ける優雅さが宿っているのだ。

だがこの老いたる余裕と対峙するのが「ベン・ケーシー」のヴィンス・エドワーズの愛憎渦巻く存在感である。彼は今でいう所謂"非モテ"的な人物で、70年代においては今後そういった存在がホラー映画、特にスラッシャー映画の殺人鬼として大手を振る訳だが、それらが持つ下卑た俗悪さはテレビ故に抑えられているにしろ、その存在感は褪せない。常に攻撃的な自意識を漲らせ、憎悪の言葉を心中で吐き散らかし、時には暴力と殺人行為にまで及ぶ。生温く汗ばみ、粘りきった執念が老婦人たちに対する異物の緊張感として機能していく。

私が最も愛するポスト作品は「ザ・ベイビー/失われた密室の恐怖」というホラー映画だ。今作は事故で幼児退行した男性を異常な愛情で囲いこむ家族から救い出そうとするベビーシッターを主人公とした1作であり、過保護を越えた狂気の愛に脳髄をブチかまされるのもそうだが、終盤の衝撃的な展開に開いた口が塞がらなかったのを覚えている。そこで印象的だったのが、善悪の概念が一瞬にして引っくり返る風景だったが、これと同じものを"Do Not Fold, Spindle or Mutilate"には感じた。

他愛ないおふざけが一線を越えるという物語はよくあるが、今作ではこの被害者と加害者の線引きが徐々に微妙なものになっていく。先述した通りマルは女性嫌悪の殺人者でありながら、その内面が延々と、永遠と描かれることで、共感の危うい余地までもが生まれる。逆に老婦人たちは最初被害者なのは勿論だが、だんだんと彼女たちの軽薄さが暴かれていき、その老いと余裕ゆえの業すらもが立ち現れる。老婦人たちの倫理観に関して、観客は考えこまざるを得なくなる。

老婦人たちの優雅な暇潰しと男の悲壮な殺意という、全く相反する要素が絡みあいながら"Do Not Fold, Spindle or Mutilate"はコメディとスリラーのあわいを奇妙に漂っていく。そうして終盤において、良い意味でも悪い意味でも他と一線を画すのは、作り手の登場人物への肩入れが明白になるからだろう。テレビ映画なので老婦人たちとマルの対峙は追跡の濃密な過程と反してあっさりとしたもので、当然マルは彼女らに捕えられる訳だが、犯人を捕まえた!と意気揚々たる4人に警察の目は冷ややかだ。そもそも騒動の発端は彼女らで、この事件はもはやマッチポンプの域だという訳だ。そして軒昂と警察署を去る4人に対して、ある警官が言う。"何故あの変態はやれなかったんでしょう。4人を殺せた筈じゃあありませんでしたか?"と。最早殺して欲しかったと言わんばかりである。その後に事件解決に湧く4人の笑顔が順番にモンタージュされる様には何か厭な気分にさせられる。

正直「ザ・ベイビー」と合わせて作り手側のミソジニーを感じさせなくもないが、善悪の転覆というものが"Do Not Fold, Spindle or Mutilate"とテッド・ポストという映画監督の異様さを指し示しているのだ。

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