鉄腸野郎と昔の未公開映画を観てみよう!

鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!の別館。ここでは普通の映画史からは遠く隔たった、オルタナティブな"私"の映画史を綴ることを目的としています。主に旧作を紹介。

Christo Christov&"Barierata"/響く旋律、たゆたう愛

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"Barierata" / "境界" (監督:Christo Christov, ブルガリア, 1979)

アントンは初老の音楽家だ。しかし彼は独身で、気ままな時を過ごしている。ある時彼はドロテアという若い女性と出会う。不思議な雰囲気を纏う彼女は、車で家に送ってほしいと言うのだが、彼女の家がどこだかハッキリしないまま、アントンは成り行きで彼女を家に泊めることになる。そこから2人の共同生活は幕を開ける。

ドロテアは全く以て謎めいた存在だ。家もどこだか分からなければ素性もハッキリしない。しかし音楽に対する感覚は抜群であり、音楽家であるアントンとはかなり気があう。そういった雰囲気ゆえに、ドロテアはブルガリア版の“マニック・ピクシー・ドリーム・ガール”と言えるかもしれない。そこに中年男性の夢という修飾までつく。そこまで聞くと今作が下らない駄作と思われるかもしれないが、そこで終わらないのが今作の魅力である。

そのうちに発覚するのが、ドロテアは精神病院の患者であることだ。彼女の担当医はドロテアの感覚はあまりに鋭敏すぎて日常生活に耐えられないと言うのだが、もう1つ信じられないことを言う。彼女は人の心を読む超常的な力を持つというのだ。もちろんアントンはそれを本気にはしないが、彼の周りで奇妙な出来事が巻き起こり始める。

監督Christo Christov(フリスト・フリストフ / Христо Христов)が今作を綴る筆致は、すこぶる繊細なものだ。先述の奇妙な現象というものはSF的な大々的なものではなく日常に足のついた奇妙さではあるが、そこには繊細な詩情が宿っている。アントンとドロテアはプラトニックな関係を貫き続けるが、その関係が震わされる時、その詩情は息を呑むほどの美しさへと飛翔する。まるで観ている自分が虹色のクラゲとして宇宙を漂うような感覚をそこでは味わうことになる。しかし更にその詩情が姿を変える瞬間がある。その時の筆舌に尽くしがたい切なさと言ったら、いやいや素晴らしい!

今作の監督Christovは60年代から活動を開始した映画作家である。代表作は原子潜水艦を舞台とした戦争映画"Cyklopat / Циклопът"(1976)や同僚の死体を彼の故郷へと運ぼうとする男たちの姿を描いた"Kamionat / Камионът"(1980)で、両作ともベルリン国際映画祭に出品されている。ちなみに"Barierata"は1980年度のアカデミー外国語賞ブルガリア代表に選出されている。ノミネートすらされなかったがいやいや獲ってもよかったと個人的には思う(実際の受賞作は「ブリキの太鼓」)

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Zvonimir Berković&"Rondo"/クロアチア、愛はチェスのごとく

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"Rondo" / "輪舞曲" (監督:Zvonimir Berković, クロアチア, 1966)

ムラデンは裁判官として勤務する、自由気ままな独身男性だ。彼にはフェジャという親友がいるのだが、ある時から日曜日の午後4時に彼の部屋へと赴き、チェスをやり始めることになる。フェジャにはネダという妻がいるのだが、2人との会話を楽しみながら、毎週チェスは繰り返される。

何故、数多の映画作家はチェスという遊戯に惹かれるのだろうか。まるで光輝く星雲のように無限大な可能性に惹かれるのか、戦略の中に宿る崇高な美しさに惹かれるのだろうか。その答えは未だ曖昧模糊であるが、今作の監督Zvonimir Berkovićもまたチェスに魅入られた1人である。2人の男が瀟洒な会話を楽しみながら、チェスに明け暮れる。本作の大部分がそれで構成されているのだから。

しかしだんだんとそこに別の要素が入り込んでくる。毎週チェスのためにフェジャの部屋へ赴きネダと会ううち、ムラデンは彼女に恋をしてしまうのだ。親友の妻であることは承知しながら、会話を交わし、彼女の心に触れる度、彼は否応なくネダに心を奪われる。そしてある時衝動的に唇を奪ってしまった後から、チェスという遊戯はその意味を少しずつ変えていく。

今作はチェスを通じた三角関係の愛の鍔迫り合いというべきだろう。チェスが無邪気な戯れになることがあれば、熾烈な闘争となることもある。しかし監督の謎めいたモダニスト的な演出も相まって、今作は様々な表情を見せる。1人の男の心理をめぐるスリラー作品、どこか現実とはずれた不条理劇、この不定形な自由さを本作の質を高めている。

そしてこの作品の核にあるのは反復だ。題名にもある“Rondo”は正に旋律の繰り返しによって成り立つ音楽であるが、ネダはある時こんな発言をする。“ロンドは反復の音楽だけれど、聞くものを退屈させることはない”それは反復の中の微妙な差異が、万華鏡的な美しさを放つからだ。今作も表面上はチェスを繰り返す男たちの姿を描いただけのものだが、そこには一瞬として同じではない豊かな感情が現れる。そうした感情の反復の中で、愛は思わぬ展開を見せるのだ。

今作の監督Berković は元々脚本家出身のクロアチア人で、その時の代表作は1956年製作の“H-8...”、ザグレブからベオグラードへ通行するバスの乗客たちの心理模様をめぐる1作である。そして彼は映画監督として1966年にこの作品を完成させた訳だが、今でもクロアチアではこの国で最も偉大な映画の1本という称賛を受けるほどに評価される作品となっている。ちなみに"H-8..."もクロアチア映画界の最も偉大な作品の1本と言われており、つまりはBerkovicはクロアチア映画界の超重要人物な訳である。

今作の後には入院中に同室の患者を見舞う女性に恋をしてしまう男を描いた"Ljubavna pisma s predumišljajem"(1985)やクロアチアの有名な作曲家であるDora Pejačević(ドーラ・ペヤチェヴィチ)を描いた伝記映画"Kontesa Dora"(1993)を監督するが、ここで映画製作を止めてしまう。とはいえ活動は旺盛で、今後は映画・演劇・音楽の分野で批評家として活躍すると共に、ザグレブ演劇芸術アカデミーで教鞭を取り製作会社Jardan Filmを経営するなどしていた。

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Kristaq Dhamo&"Tana"/アルバニア映画の夜明け来たる

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"Tana" / "タナ" (監督:Kristaq Dhamo, アルバニア, 1958)

舞台はアルバニアの山奥に位置する農村、ここにタナという若い女性が住んでいた。彼女は明るく活発な女性で、ステファンという青年と恋仲にある。しかし彼女たちには障壁もある。旧弊的な考えを持っている祖父やステファンに嫉妬する男レフテルだ。そんな中でもタナは日々を逞しく生きていく。

今作は1958年に製作されたアルバニア映画であるが、何と今作こそがアルバニア映画史においては初の長編映画なのだそうだ。そういう意味ではかなりエポックメイキングな作品である。物語はタナの姿を通じて、アルバニアの現在を描き出そうとする。野原で戯れる恋人たちの爽やかさ、男たちに混じって鉱山で鉱石を採掘したり畑を耕したりする若さ。そういうものが鮮やかに描かれる。

演出は、映画史が浅いからか、50年代より以前のサイレント映画を彷彿とさせるものになっている。例えば20年代30年代のソ連映画などのように、農作業などに明け暮れる人々やアルバニアの広大な大地が、言葉を介在させることなく、雄大に綴られていくのだ。

後半からはタナの視点を離れ始め、社会主義の波がやってきたことによって村やそこに住む人々がどう順応していくかという大局的な物語になっていく。原作・脚本のFatmir Gjata(ファトミル・ジャタ)は小説家でもあるのだが、社会主義リアリズムで有名な作家だそうだ。ということで社会主義一直線な訳で、旧態依然とした考えを持つタナの祖父は突然くたばり、タナとステファンは試練を乗り越え、社会主義な村でキャッキャウフフとなり終幕する。正に時代といった風である。

今作の監督Kristaq Dhamo(クリスタク・ジャモ)は、先述の事情があるようにアルバニア映画史において長編映画を監督した初めての映画作家という訳である。そして今作は第1回モスクワ国際映画祭に出品されてもいる。ソ連および社会主義とはズブズブである。この後Dhamoはアルバニア人スパイの姿を描き出したエスピオナージュもの"Detyrë e posaçme"(1963)やトラクター乗りを夢見る女性と夫との軋轢を描いた“Brazdat”(1973)などを作り、アルバニア映画史にその名を残している。

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Gothár Péter&"Megáll az idő"/ハンガリー、60年代を駆ける青春

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"Megáll az idő" / "時間は止まったまま" (監督:Gothár Péter, ハンガリー, 1982)

今作は1956年のハンガリー暴動から幕を開ける。ソビエト連邦の支配に業を煮やした民衆が放棄し、ブダペストの街は戦火に燃え盛ることとなる。主人公であるディニと兄のガボルの父親はこの街から逃げ出そうとするのだが、母親はそれを良しとせず廃墟の中で彼らを育てることを決める。この下りは数分しかないが今作のハイライトで、崩れた街並から燃え立つ白い炎の光景はかなり印象的だ。

物語はそれから10年後の1963年、反抗的な青年に成長したディニの姿を描く訳だが、それを通じてこの時代の文化が生き生きと描かれている。学校は男子と女子、別の部屋に分けられており、もちろん体育も別々なのだが、男子は上半身裸でバスケとかやったりしているのだ。その時デニは友人と一緒に女性の裸を映した写真を見てニヤニヤしている辺りは、まあ今の日本と変わらない感じではある。

そしてこの時代の反抗の象徴はやはり“アメリカ”文化という奴である。ロックンロールがガンガン流れる中、不良集団が学校の窓ガラスを割りまくるなどお馴染みの風景が現れたり、アパートの狭苦しい部屋で若者たちが踊り狂うなんて場面もある。その時、デニたちの憧れの的なカリスマ不良ピエールがとある飲み物を口にしてブッ!と吐き出し、この変な飲みもん一体なんだ?と聞くのだが、それがコカコーラなのだ。60年代の社会主義下ではかなり珍しい飲み物だった事情が伺えたりする。

監督の演出はかなり不思議で、全編に煙が焚かれたかのような曖昧な感触が宿っている。80年代当時からあの頃を振り返るという感じだろうか。ある意味で表現主義的な手法は、若者たちの反抗の姿をどこか夢見心地のものとして浮かび上がらせていく。あと印象的なのが登場人物のバストショットがかなり多いという点。バストショットを保ったまま人物から人物、風景から風景に長回しのまま進む様はちょっと「サウルの息子」のネメシュ・ラースローを想起させる訳で、これはハンガリーの伝統なのやも。というか長回しの先達には偉大も偉大なミクローシュ・ヤンチョーがいるし。

だが全体から言うとあんまり良くない。冒頭のハンガリー暴動の下りで家族の物語になる様子が伺えたかと思えば、デニ1人に焦点が絞られてしまい勿体無い。しかも行動のよく読めないデニの片想いの相手マグダや、デニと新任教師の微妙な関係性、“人民の敵”と見なされた父親のせいで教師たちから目をつけられるデニたちの悲哀などなど良い感じになるサブプロットは多いのに、散漫であまり印象に残らない。しかも浅いのに妙に絡み合いすぎてどうも焦点の合わない感じが辛い。

監督のGothár Péter(ゴタール・ペーテル)は今作が2作目、何と第1回東京国際映画祭で監督賞を獲得している。脚本はハンガリーを代表する脚本家のBereményi Géza(ベレメーニ・ゲーザ)だ。今作は初期作で後には監督業にも進出、第2長編の「ミダスの手」(原題“Eldoládó”、昔NHKで放送されたみたいだ)はハンガリー映画界史上の傑作として名高い、らしい。今は小説家として活躍中である。

そして最後に脇道にそれるが、少しびっくりしたのが、この同年に東京国際で同じくハンガリー映画界の超重鎮Mészáros Márta(メーサーロッシュ・マールタ)の代表作「日記」(原題“Napló gyemekeimnek”)が上映されてたりするのだ。東京国際映画祭にはチケット関連で去年酷い目に遭わされたり色々言いたいことはあるが、東欧映画の采配は毎回外さない気がする。2016年のルーマニアの「フィクサー」「シエラネバダ」やクロアチアの「私に構わないで」はどれも完成度の高い作品だった。私は観られなかったがスロバキアの「ザ・ティーチャー」やブルガリアの「グローリー」も評判が良かった。谷田部さん、カルロヴィ・ヴァリで審査員なんかしてるし、更なる東欧映画のクオリティアップに期待。

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Borislav Sharaliev&"Ritzar bez bronia"/ブルガリア、大人になるってこんな感じなのかなあ

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"Ritzar bez bronia" / "鎧まとわぬ騎士" (監督:Borislav Sharaliev, ブルガリア, 1966)

60年代のブルガリア、ヴァニョという少年はパパとママと一緒に平穏な日々を送っている。そんな中パパが新品の車を買ったのでピクニックに行くこととなった。ヴァニョはとっても嬉しくて後部座席でワッチャワッチャと騒ぎまくるのだが、何故だか良く分からないことばかりが起こって……

“Ritzar bez bronia”(ブルガリア表記"Рицар без броня")はオムニバス短編であり、いくつものエピソードを通じてヴァニョの姿とこの時代のブルガリアの生活を描き出す。最初に思うのはヴァニョ可愛いってことである。変な剣を持って友達とドンキホーテごっこや三銃士ごっこをしたり、団地内をダバダバ無邪気に走ったり可愛い。あと上手く説明できないのだが、舞台の団地は何か微妙に日本とかとは違う印象がある。同じ共産圏だとチェコのヴェラ・ヒティロヴァ監督の“Panelstory aneb Jak se rodí sídliste”に出てくる奴(あそこまで酷くないが)に印象が似ている。何か日本は外に全然人が出ていない印象だが、こっちは複合施設っぽくなってるので逆に人が犇めきあったりしてるのだ。

こうやってまあ無邪気で愛しい時間が続くのだが、根底にあるのは何ともいえない悲哀である。あるエピソードでは、ヴァニョたちを叱るけども志は高くて真面目な教師が出てくるのだが、校長であるパパは彼女の共産主義から逸脱する授業に危機感を抱き、泣いて詫びる彼女を田舎にブッ飛ばす、つまり粛清するのである。ヴァニョはその様を見てしまいあのパパが……と大ショック。更に怪しい女スパイがいるから追跡ごっこしようぜ!と友人と彼女を追っていき、彼女が密会を終えた後に迫ってみると何とママだったという衝撃展開。どっちのショックにも大号泣なヴァニョは、否応なく大人になるってことの残酷さを知る。

物語ではそれを親しい誰かにヴァニョが語るという体裁を取るのだが、その相手が叔父さんだ。自由人の彼とソフィアの町をめぐる時間はアイスも食べられるし前衛舞台の演出家とも会えるし最高に楽しい。彼だけはヴァニョを子供じゃなく一人の人間としてちゃんと親身になってくれる存在なのだ。でも観てるこっちとしては共産主義?ヘヘーイな彼もパージされるんじゃないかと気が気でない。実際二人が別れる時にヴァニョがめちゃめちゃすがる姿にはジワッとなる。ヴァニョの日々は不幸ではないけれども、でも幸せでもない何だか切ない日々だ。こういう大人たちの複雑な側面を見ながら、ボクもこういう風に大人になっていくのかなあ……

 監督のBorislav Sharaliev(Борислав Шаралиев / ボリスラフ・シャラリエフ)は1922年生まれ、50年代から映画監督としての道を歩み始める。第2次世界大戦前に活躍した詩人を描く"Pesen za choveka"(1954)や炭坑街を舞台に2人の男女の悲哀を描いた"Dvama pod nebeto"(1962)などを手掛け、IMDBによれば5作目の長編作品がこの"Ricar bez bronia"だった。ブルガリア映画史上の傑作として名高い一作の後にも精力的に映画を製作、オスマン帝国に対するブルガリアの民族蜂起、いわゆる四月蜂起を率いた作家ザハリ・ストヤノフの姿を描いた"Apostolite"(1976)、ブルガリアにおけるショーン・ペン主演「バッド・ボーイズ」とも称される一作"Vsichko e lyubov"(1979)、晩年にはブルガリア帝国のハーンであったボリス1世の生涯を描く4時間半もの大作"Boris I"(1985)を製作している。まあルーマニアとか共産圏にはよくある、ブルガリアはこんな歴史があるんだ誇り持とうぜ!的なプロパガンダ歴史映画の類というのは創造に難くない。だがザハリ・ストヤノフといい元々そういう映画を作る土壌はある一方、"Ricar bez bronia"のような明らかに社会主義批判になっている映画を作ったりと動きが読めない辺り、色々と面白い。

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Vera Chytilová&"Vlčí bouda"/雪山でチェコ版「13日の金曜日」

 

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“Vlčí bouda” / "狼の洞穴" (監督:Vera Chytilová, チェコ, 1987)

さて、Vera Chytilová(ヴェラ・ヒティロヴァ)である。日本では完全無欠最強のガールズムービー「ひなぎく」でお馴染みな、チェコヌーヴェルヴァーグの代表的映画作家だが、そうでありながら日本では「ひなぎく」以外の作品が余り紹介されておらず、その全貌は未だ知られていない。その霧を晴らすという大それたことは言わないが、今回は彼女が1987年に作った長編作品“Vlčí bouda”を紹介していきたいと思う。

舞台はチェコのとある雪山、ここにスキー合宿のため少年少女が集まってくる。親元から離れて不安な子がいれば、逆にせいせい出来るという子もいるが、皆が共通して思っているのはスキー超楽しみ!ってことだ。しかし彼らの前にいきなり暗雲が立ち込める。合宿の引率者であるリーダーとその部下たちがどことなく高圧的で怪しいのだ。しかも宿泊地の山小屋は古さびて幽霊でも出そうな雰囲気で、子供たちの心には不安が募っていく。

この粗筋を読めば、それってアメリカで良く作られてるホラーみたいなじゃない?と感じる方も多いと思うが、実際今作はその予想通りに進む。子供たちは親の離婚問題やら双子間の仲違いやら妙に面倒臭い事情を抱え、山小屋に行こうとすると謎のオッサンが危ないから頂上には行くな!と警告してくる。それでも山小屋に行った子供たちははしゃぎ回るが、都会と隔絶されたことの不安が節々に滲み渡る。正にこれ、ホラーというかスラッシャー映画、つまり「13日の金曜日」のような人里離れた限定空間ではしゃぐ若者が殺人鬼にブチ殺されまくる映画群そのままなのだ、というかもう導入は雪山版「13日の金曜日」である。

ということで勿論子供たちは不気味な出来事に遭遇する。大人たちは明らかにおかしく、特にアシスタントの大人たちは常に瞳孔が開きっぱなしで、必要以上に声を荒げたり何の脈絡もなく髪を振り乱したりと挙動が全く変だ。更にある時リーダーが彼らに告げるには、この合宿の参加メンバーは10人であり、1人だけ自分たちを騙してここに紛れ込んでいる奴がいるというのだ。リーダーは激しく詰問するがその1人はいっこうに名乗り出ず、子供たちの間には不信感が広がりだす。

そしてここからブチ殺し祭りが始まり死体が積み上がっていく……かと思えばそういうことはない。ヒティロヴァはまた別の方向へと舵を切っていく。リーダーは“1人は皆のために、皆は1人のために”という日本でも良く聞く標語を謳いながら、子供たちの結束を固めようとする裏で連帯責任という罰を科していく。更に自分たちの言うことを聞かない裏切り者が現れるのを危惧して、子供たちの1人を言葉巧みに密告者へ仕立てあげ、情報が筒抜けになるようにする。こうして支配体制を整えていく様はかなり不気味だが、ヒティロヴァが描こうとするものはこれだ。密告社会の成立、個が体制と一体化させられる世界、つまり今作はスラッシャー映画の枠組みを使い、彼女は社会主義/全体主義の恐怖を描こうとしている訳である。

だが暗喩を使うからと、本筋のホラー描写が疎かになる訳ではない。むしろヒティロヴァは巧みなディレクションでこの恐怖を更に強化していく。彼女は恐怖の現出を抑え雰囲気を醸造しながら、突如異物をブチ込んで観客に怖けを震わせる。ある時子供たちの1人が外へ出ると、雪の中でのたうち回る人影を見つける。群青色の闇の中で狂ったように雪に体を打ちつける何かの存在には、私たちはマジで絶対見ちゃいけないヤバいものを目撃しているように思わされるのだ。悍ましい事態が進行していると子供たちも私たちも悟りながら、少しずつ変わっていく世界は底無し沼のごとく彼らの足を掴みとり、何処へも逃げられなくなっていく。それは現実世界においても同じだ。

そして恐怖が最高潮になっていく時、リーダーは子供たちを集めてある宣告をする。紛れ込んだ1人が名乗り出ないのならば、誰か1人を“生け贄”に捧げなければならない。その1人を決めるため、各々が殺したい相手を1人ずつ指名していって欲しいというのだ。最初は何かのゲームと思っていた彼らの間で、しかし以前から横たわっていた不満や確執、隠されていた真実が首をもたげ始め、誰が自分を突き出すかと疑心暗鬼となっていく。それを見ながらリーダーは邪悪な笑みを浮かべる……

今作はホラー映画としての恐怖も去ることながら、当時の社会主義国家であったチェコにおいては殊更現実的だった全体主義の醜さをも炙り出す力作だ。それでもただ猜疑心と絶望だけで終わることもない、今作はある意味で子供たちの成長物語としての側面をも持ち合わせている。彼らはリーダーの手で抑圧を受けながらも、この大いなる社会といかにして戦うべきかをも学びとっていく。彼らの選びとる個としての戦い方は感動的ですらある。そして物語は解放感と禍々しさが交わりあう、ホラーとして理想的な形で幕を閉じる。だが今作においては解放が勝利を得たと断言していいだろう。この作品が完成した翌年、ビロード革命によって社会主義体制は崩壊、失われていた春がチェコにも到来するのだから。

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Puriša Đorđević&"Jutro"/ユーゴスラビアの血塗られた夜明け

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"Jutro" / "朝" (監督:Puriša Đorđević, セルビア, 1967)

その時ユーゴスラビア歓喜に湧いた。イタリアやナチスドイツら枢軸国の敗北によって、第2次世界大戦はとうとう終わりを告げたのである。彼らからの支配を逃れ自由を獲得した兵士たちは喜びに浸りながら、町を練り歩き、ユーゴスラビアの美しい大地をひた走り、愛の歌を響かせながら、祖国を裏切った者たちを抹殺していく。

"Jutro"は表面上、頗る牧歌的な作品だ。戦争の災禍から逃れた田舎にはのどかな空気が流れ、若者たちは戦争の終わりにどこか浮き足立ったりする。劇中で何度も朗らかな民謡や音楽が流れ、それに合わせて人々が踊ったりする。その中にはロシア人兵士なんかもいて(今後のソ連とチトー政権の関係を考えると興味深い)、ある女性は彼を"あの人ってスターリンみたい!"と惚れ惚れしたかのように呟く。今じゃその言葉は岡田真澄以外に言ったら洒落にならないだろう。

この何だか悪くない和気藹々とした空気感が、唐突に殺戮に繋がる瞬間は酷く不穏だ。踊りの最中、ピアノの伴奏者がナチスの通訳だったことが発覚し即刻射殺、若い兵士たちは旅の途中で行き当たった敵軍を躊躇なく殺害、とある町で裏切り者を見せしめにする場面は周囲の人間の怒りと裏切り者の朴訥とした告白も相俟って異様も異様だ。

劇中である将軍が民衆にこう語る。"私たちはこの国の顔を変えてみせよう、この国の民衆たちの魂を変えてみせよう!"と。この叫びは戦争/忌まわしき闇の終焉と新たなる希望の始まりを告げながらも、"Jutro"つまりユーゴスラビアの"夜明け"に繰り広げられたのは残酷な殺戮であったことをこの映画は物語っている。終盤、マルという若い兵士はある女性と出会う。彼女は裏切り者として処刑の時を待っていたが、彼女自身現在の不条理に耐えきれず死を望んでいた。そんな女性をマルは助けようとするが、その先に広がるのは荒涼たる風景だけなのである。

Puriša Đorđević(プリシャ・ジョルジェヴィッチ)は1924年生まれで現役の映画監督、今年で何と92歳である。40年代後半から既に映画製作を始め、現在に至るまで長編/短編に劇映画/ドキュメンタリーにと約70本もの映画を製作するに至っている。その中でも60年代後半に作られた作品群が最も評価されていると言えるだろう。1965年の"Devojka"は第2次大戦を舞台とした主人公とパルチザンの男の悲恋を描いた作品、1966年の"San"は夢を抱く若者たちの姿とと迫りくるドイツ軍の恐怖を描き出す一作、1968年の"Podne"はスターリンとティトーの決裂が決定的となった時を背景としてセルビア人の町に広がる風景を描いた作品だ。今作は1967年製作だが、プーラ・ユーゴスラビア映画祭で作品・監督・脚本の三冠を、ヴェネチア国際映画祭では男優賞を獲得するなど話題となった。