鉄腸野郎と昔の未公開映画を観てみよう!

鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!の別館。ここでは普通の映画史からは遠く隔たった、オルタナティブな"私"の映画史を綴ることを目的としています。主に旧作を紹介。

Ted Post&"Do Not Fold, Spindle or Mutilate"/テッド・ポストが見据える善悪の彼岸

Do Not Fold, Spindle, or Mutilate (1971) — The Movie Database (TMDb)

"Do Not Fold, Spindle or Mutilate" / "折り畳んだり、紡いだり、バラバラにしたりしないで"(Ted Post, アメリカ, 1971)

今作の主人公は4人の老婦人たちである。彼女たちは集まっては他愛ない世間話に花を咲かせていたのだが、この日は喫茶店で1人がある提案をする。最近人気のコンピューターを通じたデートサービス(だが舞台は2010年代ではない、1970年代である!)に登録しようというのだ。だが自分たちのプロフィールではなく、レベッカという"若い女性"を捏造し、それで男たちを騙してやろうというのだ。彼女たちは暇潰しとして早速このいたずらを始めるのだったが……

まず、この作品では老婦人たちの無邪気な生命力の輝きが眩しい。続々と集まってくる男たちからの手紙に目を通し、彼らの阿呆な直情ぶりや滑稽なまでの紳士的振舞いに目を細める。それが彼女たちの灰色の日常に彩りや潤いを与える。気心知れた友人たちとの悪ふざけを楽しく思うのは、何も中学生の男子だけではない。老若男女そうなのだ。

だがそのレベッカという虚構にマルという男が引っかかる。彼は女性との関係をうまく構築することができず、女性たちへの怒りはもはや逆恨みの域に達していた。そんなマルはレベッカに恋に落ち、何としてでも彼女に会おうと行動を始める。そんな深い固執は激化の一途を辿り、マルの行動はエスカレートしていく。

4人の老婦人は終りないお喋りで満たされている一方で、マルが登場する場面では彼が心のなかで呟く独り言が延々と垂れ流される。女性への執着や人生への怨嗟の数々は、何とも楽しげなお喋りと対比され、ひどく惨めで悲壮に響き渡る。いつしかそこには性差別的思想に支配された孤独な男への危うい共感すらも現れる。

だが老婦人たちはそんなマルの状況など知る訳もなく、マルに対しても嘲笑うような態度を崩さない。そしてこの意地の悪さがマルを限界にまで至らせた時、マルはレベッカと誤解した女性を殺害してしまう。ここに来て危機的状況に気づいた4人は事態の収拾を図ろうとするのだが……

本作の監督は何か喉奥に小骨が引っかかるような、妙な映画を作る異能の職人監督テッド・ポストだ。彼は元々テレビ畑の人間で、映画を製作し始めてからもテレビでの仕事を辞めることはなかったが、この映画は「続・猿の惑星」翌年に制作したテレビ映画の1本である。ここでの彼は真摯な職人としての能力を遺憾なく発揮しており、長回しを主体として舞台劇的な物語を描きだしながら、演者たちからも滋味深い演技や感情を引きだしている。

ここでポストが迎えたのは4人の大女優たちである。「ハリーの災難」にも出演するミルドレッド・ナトウィック、「マデロンの悲劇」でアカデミー主演女優賞獲得のヘレン・ヘイズ、フリッツ・ラングの寵愛を受けたシルヴィア・シドニー、「我等の生涯の最良の年」で日本でも人気のマーナ・ロイなどなど錚々たるメンバーである。彼女たちが伸びやかに言葉を紡ぎ、紅茶を楽しむ姿には花咲ける優雅さが宿っているのだ。

だがこの老いたる余裕と対峙するのが「ベン・ケーシー」のヴィンス・エドワーズの愛憎渦巻く存在感である。彼は今でいう所謂"非モテ"的な人物で、70年代においては今後そういった存在がホラー映画、特にスラッシャー映画の殺人鬼として大手を振る訳だが、それらが持つ下卑た俗悪さはテレビ故に抑えられているにしろ、その存在感は褪せない。常に攻撃的な自意識を漲らせ、憎悪の言葉を心中で吐き散らかし、時には暴力と殺人行為にまで及ぶ。生温く汗ばみ、粘りきった執念が老婦人たちに対する異物の緊張感として機能していく。

私が最も愛するポスト作品は「ザ・ベイビー/失われた密室の恐怖」というホラー映画だ。今作は事故で幼児退行した男性を異常な愛情で囲いこむ家族から救い出そうとするベビーシッターを主人公とした1作であり、過保護を越えた狂気の愛に脳髄をブチかまされるのもそうだが、終盤の衝撃的な展開に開いた口が塞がらなかったのを覚えている。そこで印象的だったのが、善悪の概念が一瞬にして引っくり返る風景だったが、これと同じものを"Do Not Fold, Spindle or Mutilate"には感じた。

他愛ないおふざけが一線を越えるという物語はよくあるが、今作ではこの被害者と加害者の線引きが徐々に微妙なものになっていく。先述した通りマルは女性嫌悪の殺人者でありながら、その内面が延々と、永遠と描かれることで、共感の危うい余地までもが生まれる。逆に老婦人たちは最初被害者なのは勿論だが、だんだんと彼女たちの軽薄さが暴かれていき、その老いと余裕ゆえの業すらもが立ち現れる。老婦人たちの倫理観に関して、観客は考えこまざるを得なくなる。

老婦人たちの優雅な暇潰しと男の悲壮な殺意という、全く相反する要素が絡みあいながら"Do Not Fold, Spindle or Mutilate"はコメディとスリラーのあわいを奇妙に漂っていく。そうして終盤において、良い意味でも悪い意味でも他と一線を画すのは、作り手の登場人物への肩入れが明白になるからだろう。テレビ映画なので老婦人たちとマルの対峙は追跡の濃密な過程と反してあっさりとしたもので、当然マルは彼女らに捕えられる訳だが、犯人を捕まえた!と意気揚々たる4人に警察の目は冷ややかだ。そもそも騒動の発端は彼女らで、この事件はもはやマッチポンプの域だという訳だ。そして軒昂と警察署を去る4人に対して、ある警官が言う。"何故あの変態はやれなかったんでしょう。4人を殺せた筈じゃあありませんでしたか?"と。最早殺して欲しかったと言わんばかりである。その後に事件解決に湧く4人の笑顔が順番にモンタージュされる様には何か厭な気分にさせられる。

正直「ザ・ベイビー」と合わせて作り手側のミソジニーを感じさせなくもないが、善悪の転覆というものが"Do Not Fold, Spindle or Mutilate"とテッド・ポストという映画監督の異様さを指し示しているのだ。

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Rezo Esadze&"Love at First Sight"/アゼルバイジャン、一目惚れは切なく

Любовь с первого взгляда (СССР, Грузия, 1975) – Афиша-Кино

"Love at First Sight / Любовь с первого взгляда / 一目惚れ" (監督:Rezo Esadze, ソ連, 1975)

"Love at First Sight"はまずアゼルバイジャンの首都であるバクーに広がる日常を描きだしていく。住宅街では住民たちがのべつまくなしに喋りまくり、通りでは羊をめぐって争奪戦が開始される。それを尻目に少年たちはサッカーに明け暮れ、快活にボールを追い続ける。ここに溢れる生命力が今作の要でもある。

主人公はサッカーをする少年の一団にいるムラドだ。ある時、彼は吹っ飛んでいったボールを取りに建物を登っていくのだが、そこで窓から見えたのは裸で読書をする少女の姿だった。その衝撃は雷撃を喰らったようなものであり、しばし呆然と立ち尽くしてしまう。少年たちに促され彼はやっと下へ降りていくのだが、その感情が初恋というものだということを彼はまだ知らない。

こうしてムラドと少女の恋の物語が始まるのだが、最初の障害となるのは身分の差だ。ムラドは貧困に喘ぐ労働者階級ながら、少女は優雅に文学を楽しむことのできる中産階級である。少女の周りの人間は教養もないと断じムラドへの軽蔑を隠さないながら、積極的に慕ってくるムラドに対して少女の心は少しずつ傾き始める。

今作において巧みなのはLeda Semyonovaが手掛ける編集だ。物語は冒頭のような群像劇的なバクーの風景と、ムラドの恋の物語を行きかう。ここで彼女の編集はこの都市の活気ある犇めきの風景と青年の揺れ動くちっぽけな心、つまりマクロとミクロの世界を平行に、平等に提示し、物語世界の奥深さをより盤石なものにしていく。世界には小さな愛が力強く根づいているのだと、その編集は気高く語るのだ。

編集技師Leda Semyonovaのキャリアは頗る興味深い。この作品はキャリア初期の1作だが、以後アレクセイ・ゲルマンの「我が友イワン・ラプシン」やSvetlana Proskurinaの"Accidental Waltz"、ソ連映画最後の傑作であるAndrei Chernykhの""The Austrian Field"などを手掛けると同時に、アレクサンドル・ソクーロフの編集上のパートナーとして「孤独な声」から「牡牛座 レーニンの肖像」まで彼の作品を手掛けていた。現在は活動していないようだが情報がロシア語しかなく、キャリアの全貌が分からないのが歯痒い。

そして物語における生命力は爆発的な膨張を遂げていく。それを象徴するのが住宅街での葬式の場面だ。ここにおいて描かれるのは死だが、住民たちはありあまる生命力を以て死者を見送る。爆ぜるような絶叫、誇張された身振り、咲く極彩色。エミール・クストリツァ作品をも想起させるこの狂騒の中でこそ生が祝福されるのだ。

さらにまたムラドの初恋も寿がれることとなるのだが、それは単純な大団円とは行かない。様々なうねりを越えて、彼らの愛は深まっていくが、どうしようもない壁すらもそこには存在する。そこにおける挫折の切なさもまた寿がれるべきものなのだろう。

Rezo Esadze რეზო ესაძე テンギズ・アブラゼゲオルギー・シェンゲラーヤに比べると知名度は若干落ちるが、彼もまたソ連時代に活躍したジョージア人監督の1人である。1934年ジョージア・シェモクメディ生まれ、トビリシ大学と全ロシア映画大学で学んだ後、映画製作を始める。生まれ1967年制作、孤児の少年を描いた4つのオムニバス短編集"Четыре страницы одной молодой жизни / Four Pages of a Young Life"がデビュー長編、今作は第3長編にあたる(という訳で今作はジョージア人監督によるアゼルバイジャン映画というソ連時代特有の作品となっている)その後はジョージアで映画製作を続けるが、1985年のコメディ映画"ნეილონის ნაძვის ხე / The Nylon Christmas Tree"からはしばらく映画製作から遠ざかる(俳優としては活動していたようだ)それでも2005年にはソ連崩壊後に独立を果たしたジョージアを描く"ჭერი ანუ დაუმთავრებელი ფილმის მასალა / The Roof or the Unfinished Film Material"で映画監督に復帰、2016年に"Month as a Day"を監督した後、2020年に86歳でこの世を去った。

Любовь с первого взгляда (1975) - Trakt.tv

Ingrid Thulin&"Brusten himmel"/スウェーデン、ほのかな絶望の輝き

 

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"Brusten himmel / ひび割れた空" (監督:Ingrid Thulin, スウェーデン, 1982)

舞台は1940年代のスウェーデン北部、エリカという13歳の少女は家族と一緒に静かな暮らしを送っていた。しかし彼らは皆人生というものに落胆と幻滅を抱いており、生活の中に喜びはない。この日も夫婦喧嘩を繰り広げる両親にウンザリしたエリカは、祖母の家へと逃げていく。

今作は40年代スウェーデン(監督が実際に10代を過ごしていた時代でもある)の様子を克明に描きだしている。雪が降り積もっている故に移動手段はスキー、光り輝くおもちゃ屋の様子とおもちゃすら満足に買えないエリカの表情、祖母と交流する時の束の間の温もり。しかし最も際立つのはやはりエリカの家族を包みこむ貧困だ。まるで真綿で首を絞められるような不可視の貧困が彼らを深く疲弊させていく。

エリカたちは幸福ではないが、全面的に不幸という訳でもないという狭間の状況にある。だがだからこそ落胆と幻滅に塗り潰された彼らの生活は緩慢な自殺のように思える。父は酒に溺れ、時おり目も当てられない醜態を晒し、母はそれに対して露骨な軽蔑を隠さない。その中でエリカの心は静かに死んでいく。

ここにおいてエリカは現実から逃れようと、想像の世界へと逃げだそうとする。ここで魔術的リアリズムの世界が現れるかと思えば、彼女の想像力は現実の酷薄さに打ち勝つことができない。彼女の目前には常に寒々しい雪と大地が広がるばかりで、想像の萌芽が少しでも見えることがない。あるのは淀んだ絶望ばかりだ。

それでもエリカの心を尻目に、時は過ぎていく。冬の白の中でエリカは必死に凍てつきを耐え続ける。夏の緑の中でエリカは友人たちと煌めく自然を楽しみながら、そこには哀しみが否応なく付きまとう。そして美しく時は過ぎていき、エリカは自身の人生において何かの終りが迫っていることを知るのだ。

今作はベルイマンの諸作で名高い、スウェーデンの大俳優イングリッド・チューリンが残した最初で最後の長編監督作である。他には短編とオムニバス短編集の1編しか監督していないが、今作は巨匠の練熟を持ち合わせた盤石の1作であり、おそらくベルイマンらの撮影現場で様々なことを学んできた故の力量なのだろう。今作の後に監督作を何も残さなかったことは余りにも惜しい。そして本国においてもあまり有名ではないようである。それでも、この"Brusten himmel"は間違いなくスウェーデン映画史に残る傑作、ほのかで忘れがたい絶望の輝きである。

Brusten himmel SVT1 HD 27 jul 23:25 måndag - allatvkanaler.se

Jeles András&"Álombrigád"/混沌の上演、未だ始まらず

Részletek Gelencsér Jeles-könyvéből - Magazin - filmhu

"Álombrigád / 夢の旅団" (監督:Jeles András, ハンガリー, 1983)

今作のあらすじは一応こういうものだ。主人公がある労働組合とともにソ連の戯曲を舞台化しようと試みる、しかし製作は困難を極め、脇道に逸れ続け、いつまで経っても完成に至る気配すら見えない……が、この作品はこの単純なあらすじに収まるほど従順な映画ではないことは冒頭から分かる。

序盤から語り手は語り手という概念が矮小に思えるほどに膨大なる言葉を紡ぎつづけ、その背景では舞台製作の状況、他の映画のフッテージ、そして正体すら判然としない奇妙な映像が混ざりあい、事態は壮絶なまでに支離滅裂だ。だがこの膨大な語りと滅裂な編集の中で、映画は早くも風変わりな映像詩に昇華される。

語りは俳優/労働者たちも交えてポリフォニックなものへと移行するのだが、十数人の声が交錯する時に鮮烈に感じられるのがハンガリー語の魔術的な響きだ。東欧において全く孤高の言語であるハンガリー語は何物にも似ていない、曲がりくねった響きを持ち、観客を幻惑へと誘う。そしてそこに加わるのは暴力的に挿入される日常音の数々だ。そしてさらに今作は映像詩から五感をフル活用して味わうべき音楽へと姿を変えるのだ。

奇妙に印象的なのは俳優として参加する労働者男性たちの結びつきだ。それは序盤に頻出するシャワー室で露になる一糸まとわぬ裸体のように赤裸々で、廃墟の窓枠を越えて頬を擦りあう2人の男のように親密なものだ。そこに発声と挙手挙動の舞台的な誇張が仲間入りすることで、無二の官能的関係性が紡がれていくのである。

今作に現れる様々な要素を羅列していったが、これら全てが強烈な個性として独立しながらある種の独善性を以て展開していく。だが監督のJeles András イェレシュ・アンドラーシュはこの強烈な個性の数々を自由に躍動させながら、同時に破綻スレスレで統率を取っている。このギリギリの状況の中でこそ、その個性の群れは有機的に響きあうことともなる。

語り手や俳優たちは舞台を完成させようと奔走するのだが、その完成はどんどん程遠くなっていく。この出口の見えなさが極まっていくにつれ、映画の展開もどんどん脇道に逸れ、一体何が主眼だったのかすら判然としなくなる。だが一線を越えて逸脱こそが中心となる時、映画はまた別の何かへと変貌を遂げるのだ。監督は荒唐無稽と支離滅裂に満ちた混沌のなかにこそ、美を見出している。この美への圧倒的に過激なマニフェストがこの"Álombrigád"なのだ。

Jeles Andrásは1945年生まれのハンガリー人監督だ。デビュー長編は盗んだ金を使い街を彷徨い続ける青年の1日を描いた作品"A Kis Valentinó"(1979)、そして第2長編は俳優が全員子役でドギツい性描写もあるゆえ、ペドファイル国家日本で変に有名な「受胎告知」("Angyali üdvözlet")だ。この作品と同年に作られたのが今作"Álombrigád"だった。しかし反体制的との烙印を押されてしまい、1989年まで公開が許されなかったという逸話がある。最新作はドイツの画家ハンス・ホルバインの作品「大使たち」に着想を得た作品"A rossz árnyék"(2018)で、未だ現役バリバリで映画を作り続けている。

驚きなのはこのJeles Andrásの息子があの「サウルの息子」で2010年代を席巻したネメシュ・ラースローであることだ。ネメシュ作品におけるラディカルさの源が今作含めたJeles作品にあると考えると、何とも豊穣なハンガリー映画史を感じさせる訳である。

Álombrigád (1989) - IMDb

Algimantas Puipa&"Moteris ir keturi jos vyrai"/リトアニア、1人の女と4人の男たち

LRT plius“ žiūrovai pamatys atgimusį filmą „Moteris ir keturi jos vyrai“ |  Alfa.lt

"Moteris ir keturi jos vyrai / 1人の女と4人の男たち" (監督:Algimantas Puipa, 1983, リトアニア)

ある1人の女がいる。彼女の夫は海難事故で帰らぬ人となる。そして彼女は夫の長男に引き取られ、彼の妻となる。だが彼もまた死に、今度は夫の次男の妻となる。だが彼も亡くなり、女は夫の父親の元へ行くことになる。

今作の物語は1人の女性が夫の親類に妻として引き継がれていくという、現在の観点から見ればかなり悍ましいものである。しかし今作は、それがリトアニアの歴史に確かに存在した一場面として真正面から描きだそうとするのである。

まず印象的なのはバルト海沿岸部の凄まじいまでの荒涼ぶりである。そこは生命の全て死滅したような砂の荒野が広がっており、見るも無残な姿を呈している。砂丘は濃厚な汚穢に覆われており、その悪臭がスクリーンから漂ってくるようである。

そして女性が2番目の夫を見送る時、彼らは砂浜に立ちずさむ。2人の奥には砂浜に無数の十字架が刺さっている光景が見て取れる。これは夫の来たる死を饒舌なまでに予告している。そうした不穏なる予感と、時には直截たる死が今作には溢れているのである。

だがそれに反して今作の撮影は息を呑むほどの崇高さに溢れていると言ってもいいだろう。風景には常に半透明の霧がかかっているのだが、その奥から絶望を体現したかのような汚穢の砂丘や鈍重な波が現れる時、そこには荒廃の詩が浮かびあがるのである。この類稀な詩が今作を支えているのだ。

そして主人公である女性の姿も印象的だ。彼女はまるでこの荒廃の大地に憑りついた亡霊のような佇まいであり、夫が変わろうともほとんど動じることはない。それでも物語が進むにつれ、これが彼女にとって唯一の生存の術であることが分かってくるだろう。だからこそ女性の身体には常に悲愴感が宿るのだ。今作は19世紀リトアニアの歴史を、ある女性の苦難の人生より描きだそうとする野心的な試みなのである。

Filmas. Moteris ir keturi jos vyrai | Gimtoji kalba

Uri Zohar&"Hole in the Moon"/夢はでっかくシオニズム国家再建説!

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"חור בלבנה" / "月に開いた穴" / (監督:Uri Zohar, イスラエル, 1964)

さて、皆さんはイスラエル映画史における重要人物Uri Zoharを知っているだろうか。彼はコメディアンとしてそのキャリアを始めた後に映画作家になり、イスラエルの重要な映画潮流である"New Sensitivity"の旗手として既存の映画文法に捕らわれない映画を製作する。彼は一躍時代の寵児となるのだが、何と突然ユダヤ教超正統派のラビに転向、多くの世俗的イスラエル人を改宗させるカリスマ的存在となる。そんなイスラエル映画界のトリックスターたる彼が、まず最初に完成させた長編映画が今回紹介する"Hole in the Moon"だ。

今作の主人公はツェルニクという男性だ。彼は移民としてイスラエルにやってきた後、新天地を求めて砂漠地帯の中心部へとやってくる。彼は誰もいないこの場所に店を建設し、自由気ままな生活を送りはじめる。

まず最初の印象としては、今作が明白なまでにヌーヴェルヴァーグに影響を受けているということだ。イスラエルの街並みや砂漠を背景として、ツェルニクは自由なる魂を疾走させる。その様がビビッドな撮影や、支離滅裂なまでに力強い編集によって描かれることで、今作はツェルニクの魂とそのまま共鳴することとなる。

そんな折、ツェルニクは同じく砂漠に店を立てる男性と出会うことになる。意気投合した彼らは互いの店に商品を売りあうことで、日常を過ごすのであるが、彼らはそれで満足することはなかった。そしてツェルニクたちが乗り出したのが映画製作だった! 彼らはイスラエル中から俳優やスタッフを集め、すぐさま撮影に取りかかる。

今作はいわゆる映画についての映画であり、この時代そんな作品は少なくなかったが、他と一線を画するのは序盤から分かるはずだ。西部劇や時代劇のセットで、俳優たちは狂ったように演技を行い、全身の毛穴という毛穴から狂気をブチ撒けていく。そして編集によって複数の映画撮影が並行で映しだされ、その衝撃をモロに受ける観客の眼球はオーバーヒートに晒されるのだ。

50年代のイスラエル映画界においては、ユダヤ人の民族的拠点の勃興と成長を寿ぐ、いわゆるシオニズム映画が隆盛を誇っていたそうである。今作"Hole in the Moon"はその流行を真っ向から風刺する作品であるという訳だ。劇中、アラブ人俳優たちが監督であるツェルニクたちに"俺たちにも善人役を与えてくれ!"と懇願する場面がある。シオニズム映画においてアラブ人たちは常に悪役だったのだ。そして相談の結果、ツェルニクたちは彼らに善人役を与える。不毛たる砂漠を耕しながら、シオニズムを礼賛する曲を高らかに歌う農夫役を。この毒のあまりの強さに、風刺のはずが笑えないことすら頻繁にあるのだ。

そして映画製作は続く。ある時、今作は撮影現場に集まってきた女性たちに迫るドキュメンタリーへと変貌する。インタビュアーは彼女たちに"何故、女優になりたいのですか?"と質問するのだが、"有名になりたいから!"など曖昧な返事が返ってくると"それは何故?"と執拗に詰問を続けるのだ。そうして引きだされる女性たちの言葉は頗る空虚なものであり、この映画製作自体も空虚なもののように思えてくる訳である(そしてこの場面に適用されているのはいわゆるシネマ・ヴェリテという技法であり、当時の映画界において支配的だったこの技法すらも揶揄するような作劇となっている)

先述したが、映画についての映画というのはこの時代少なくない。例えば"Hole in the Moon"がオマージュを捧げるヌーヴェルヴァーグにおいても、トリュフォーの「アメリカの夜」やゴダールの「軽蔑」がそんな作品と言えるだろう。未来にも同種の映画は多く制作されるが、今作はその中でも壮絶さでは頭一つ抜けている。洪水のように観客の網膜に流れこむイメージ、一貫性を一切排した爆裂的な支離滅裂さ、そして最も強烈なのがイスラエルという呪われた国家への痛烈な批判である。

映画製作が展開していくにつれて、シオニズムを核とした映画世界が加速度的に拡大していくのを私たちは感じるだろう。それはまるで砂漠のど真ん中に再び、しかしもっと激烈で強靭なるシオニズム国家を作りあげようとでもいう風だ。その試みは様々な障害にブチ当たり、時には劇的に打ち砕かれる時もありながら、最後には偉大なる復活を遂げるのである。

"Hole in the Moon"は忌まわしき国家イスラエルの心臓を打ち抜かんとする試みに溢れた野心的な作品である。しかしイスラエルはそう簡単に崩壊することはない。その頭蓋骨のごとく荒涼たる砂漠に世界を打ちたち、そして叫ぶのである。イスラエル人の誇りは砕けることはない!と。

דן ריזינגר: 60 שנות עיצוב - כולעיצוב

Frank Ripploh&"Taxi zum klo"/ゲイよ、トイレ行きタクシーに乗れ!

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"Taxi zum klo" / "トイレ行きタクシー" (監督:Frank Ripploh, 西ドイツ, 1980)

今作の主人公フランクは昼は小学校教師として働きながら、夜はハッテン場で男を漁るヒップなゲイである。例えば彼はハッテン場のトイレで宿題の採点をしながら、覗き穴から男たちのプリケツを吟味する。そしてトイレの壁から時おり剥き出しのチンコが現れるので、それを手コキしたりするのだ。彼はそんな日々を楽しんでいた。

前述通り、今作の性描写はあけすけで、80年代という時代を考えればかなり大胆だ。当然のようにセックスはバンバン映るし、アナルに挿入すれば射精だってする。さらに主人公は殊勝なことに性病検査にも行くのだが、その過程も逐一描写する。アナルがヒクヒクする様を延々見せられる様は「ロマンスX」の出産場面並みの衝撃である。

そんなある日、彼は映画館でベルントという男と出会う。彼と意気投合したフランクはそのままセックスにもつれこむ。さらに恋人関係のようなものにも発展していくのだったが、移り気なフランクはフラフラと様々な男の元を彷徨い……

フランクとベルントのすれ違いは何というかポリアモリーとモノガミーの認識の違いを表しているようである。それを象徴している場面がある。フランクは偶然乗ったタクシーの運転手と冬空の下でセックスに励む。その一方でベルントは彼とハネムーンに行こうと旅行会社で色々と吟味をしている。そんな場面が交互に切り替わる様は、2人の意識が明確にすれ違っていることを表現していて辛いものだ。

今作はゲイとしての生き方と愛の普遍的な難しさを両立した作品である。そして現在でも珍しいだろう、底抜けに明るいクィア映画として傑作だ。雪の公園を散歩するうち、フランクはベルントのために立ちションでハートマークを描き出す。その時の多幸感ったら! 難しい時期はあれども、そんな感覚が今作には満ち渡っている。

監督のFrank Ripploh(フランク・リプロー)は主演も兼任しているのだが、俳優としてはファスビンダーの「ケレル」や「未来世紀カミカゼ」に出演していた。更には実際に小学校教師としても勤務していたらしい。ゲイというのを表立って宣言していたので、ドイツ当局に非難されていたという。そして7年後に彼は今作の続編"Taxi nach Kairo"を監督するのだが、ここからはそのレビューに入っていこう。

8年が経ちベルントと別れた後も、フランクは気ままな生活を送っていた。しかし母親から結婚しろと詰め寄られ、仕方なく相手を探し始める。そして見つけたのが俳優のクララだった。首尾よく彼女と偽装結婚を図り、郊外に身を落ち着けるのだったが、彼は隣人のホットな男性オイゲンと出会ってしまう。

今作の内容は古典的な三角関係とゲイの偽装結婚である。ハイテクオタクのオイゲンはクララに色目を使う一方で、フランク自身も彼の魅力に惹かれていく。さらにフランクは普通に男たちと浮気しまくっているので、偽装結婚は揺らいでいくのである。

前作"Taxi zum klo"は初監督作というのもあり、演出的にはかなり荒い部分があった。撮影や編集なども粗削り感が強かったのだ。今作ではRipplohの演出は洗練されており、堂々として滑稽なメロドラマとしての体裁を誇っている。

が、それは良いことだとは言い難い。前作には荒いゆえの粗削りなパワーが存在していた。初期衝動をそのまま映画に刻みつけるような力が存在していたのだ。だが洗練によって古典回帰的になったことで、その力が失われてしまった。さらに前作ではあれだけ大胆だった性描写の数々が一切なくなってしまった。その大胆さに親しんでいた者としては悲しいことこの上ない。

という訳で"Taxi zum klo"は世界各地でカルト的な人気を博することになったのだが、待望の続編であった今作はドイツ国内ですら人気を獲得することなく、映画史の闇に埋もれてしまった。そしてRipplohもこの結果に落胆したのか、映画界から姿を消してしまった。そして2002年にガンでこの世を去った。

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